未知との遭遇



落ち込んだりもしたけれど私は元気です。ベレー帽です。こんばんわ

長い夢でも見ていたようです。おまいら、おはよう。



さて昨今は活字離れが叫ばれていますが、これからの時代、文章を読み書く能力というものは非常にウェイトが高くなってくることでしょう。個人がブログを作ったりHPを作ったり
異性にメールを書いたり、メールを書いたり、メールを書いたりするようになる訳ですから。

ちょっとしたことでも誤読、誤解、失礼、その他色々なトラブルに巻き込まれるわけです。


然るに現状の学校教育というものは、えーと私、高校までの教育は受けてはいるのですがその間に一度たりとも文章に関する勉強をした覚えがありません。


最も学校教育に関しては、俺が小学校のときに地球が出来たのは50億年前と言われて、46億年では?と尋ねたら否定されテストでも50億年と書かされたとき以来ずーっと根に持っているのですが。


ちなみに今ならビックバンは約150億年前>約137億年前に改まったでしょうか?


閑話休題。

さて、そこで私がそれなりにいくつか読んで気に入って買った作文の本の紹介をします。


清水義範の作文教室   清水義範 ハヤカワ文庫JA

この本は分かり易くて好き。中でも非常に感銘を受けたのは

「私は妹がにくらしくなり、殴ってやりたいと思いました。」
と言う作文に対して、
「姉妹は仲良くしましょう、弱い子をいじめるのは良くないことです。」
と言う指導を書き添える。


これに作者さんは反対してるんです。要約すると、それは内容についての指導であって道徳の時間じゃない。作文の時間なのだから、どういった主張が正しく伝わるよう書いてあるかの技術的指導をすべきだと言うこと。

残りは推して知るべし。技術的かつ子供と言うよりも教師向けに書いてあるような感じです。是非。

日本語の作文技術  本多勝一 朝日文庫

続編は

実践・日本語の作文技術

内容はかなり高度ですが、精神論や感情論でないガチガチの理論的な本ですので、私の好みです。

特に役に立ったなあと思ったのが修飾語のくだりで

「私は小林が中村が鈴木が死んだ現場に居たと証言したのかと思った。」
これを
「鈴木が死んだ現場に中村が居たと小林が証言したのかと私は思った。」

に並べ替えています。


これは作者も言うように極端な例なのですが、
文法的には主語が最初に来て述語が最後に来るので正しいのは前者なんです。

「プロパンガスが爆発して4人が重症、32人が飛び散ったガラスの破片などで1〜2週間の怪我をした。」

これなどは最初読むと32人がバラバラに飛び散っちゃったかのように読むと思います。

「4人が重症、飛び散ったガラスの破片などで、32人が1〜2週間の怪我をした。」
と直します。

ねえ、俺が好きそうな非常に論理的な話でしょう?ほらみんな文章って個性だと思ってるじゃないですか?教わるもんじゃない的な。私もそう思います、でもこういったのは別ですよね。まずは伝える技術ありきですから。

この章での結論は、主語と述語の間に入れ子状に修飾語を挟んではいけない。ということ。
要約すればです、詳しくは本をどうぞ( ´∀`)つθ



最後は脚本家を目指す人用に、一応。但し間違っても小説化志望が読んではいけません。似て非なるもので両者は水と油です。


違いは小説家は
「怒りを堪えた。」と書くところが
脚本家はト書きで
Aは、拳をプルプルと震わせながら握った。
となります。小説は抽象。脚本は具象。映像化するときの表現方法を考えます。また、心の声も使えません。

シナリオの基礎技術 新井一 ダヴィッド社

シナリオの技術

がお勧めかと。これもまた非常に論理的で、個性や感性を損なうことなく技術のみ学べるでしょう。


以上ですが、勿論私はこれらを何度か読んでいます。、が


まんまんみてちんちんおっきおっきしたお!おけwwwwwっうはwwwww!

とか言ってみたりする実践派です。

先日のメールでもワロスwwwって何?笑うって事?ってマジ質問される自分が居ましたよ。


ははははははははは、、、、、、、、、、、。